大野 百錬について

大野百錬 (1864-1941) 岐阜県大垣市出身

大垣藩士大野十助の次男に生まれる。本名鉄之助。藩校の儒学者野村籐陰に師事し漢書を、菱田海鷗に漢詩を、前田元敏に英語を学ぶ。14歳で大垣小学校(興文小)の助教を勤めた。20歳のころ、岐阜県尋常師範学校、大垣尋常中学校で漢文と書道の教師として教壇に立ち、 24年間にわたって郷土の子弟の教育にたずさわった。
その後、漢詩人、木蘇岐山として毎日詩壇(大阪毎日)で活躍。1919年大垣中学退職後、書家として活躍。百錬の絶妙な筆跡は、当時並ぶもの無しといわれ、書道会のリーダーとしての活動はめざましいものがあった。さらに帝国書道院の設立と大日本畫道作振会を設立。日本代表として、中国視察に出かけ「日満支親善書道展」で審査員を務める等活躍する。仮名を能くし、門人に文化功労者の日比野五鳳はじめ、百錬の影響を受けたものは数知れない。息子に大野国彦(大野国比古)がいる。